疑ふことを得ず。「讀誦大乘」と言ふは、此れ經敎は之を喩ふるに鏡の如し、數々讀み數々尋ぬれば、智慧を開發す。若し智慧の眼開けぬれば、即ち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂することを明す。「勸進行者」と言ふは、此れ苦法は毒の如く、惡法は刀の如し。三有に流轉して、衆生を損害す。今既に善は明鏡の如く、法は甘露の如し。鏡は即ち正道を照らして以て眞に歸せしめ、甘露は即ち法雨を注ぎて竭くること無からしむ、含靈をして潤を受け、等しく法流に會せしめんと欲することを明す。此の因縁の爲の故に、須く相勸むべし。「如此三事」と言ふ已下は、總じて上の行を結成す。
五に「佛告韋提」より下「正因」に至る已來は、其の聖を引きて凡を勵ますことを明す。但能く決定して心を注むれば、必ず往くこと疑無し。
上來五句の不同有りと雖も、廣く散善顯行の縁を明し竟んぬ。
[定善示觀縁]
七に定善示觀の縁の中に就て、即ち其の七有り。
一に「佛告阿難」より下「淸淨業」に至る已來は、正しく敕聽許説を明す。此は韋提前に極樂に生ぜんと願ずることを請じ、又得生の行を請ふに、如來已に許す。今此の文に就て正しく正受の方便を開顯せんと欲ふことを明す。此れ乃ち因縁の極要なり、利益處深し。曠劫にも聞くこと希なり。、如今始めて説く。斯の義の爲の故に、如來總じて二人に命ぜしむることを致す。「告阿難」と言ふは、我今淨土の門を開説せんと欲す、汝好く傳持して遺失せしむること莫れとなり。「告韋提」と言ふは、汝は是請法の人なり、我今説かんと欲す、汝好く審に聽き、思量諦受して、錯失せしむること莫れとなり。「爲未來世一切衆生」と言ふは、但如來化に臨みたまふは、偏に常沒の衆生の爲なり。今既に等しく慈雲を布きて、普く來潤を沾さんことを望欲す。「爲煩惱賊害」と言ふは、此れ凡夫は障重く、妄愛迷深くして、三惡の火阬闇くして人の足下に在ることを謂はず。