縁に隨ひて行を起し、進道の資糧と作さんと擬するも、何にせん其の六賊知聞し、競ひ來りて侵し奪ふ。今既に此の法財を失ふ、何ぞ憂苦無きを得んといふことを明す。「説淸淨業」と言ふは、此れ如來衆生の罪を見はすを以ての故に、爲に懺悔の方を説きて、相續して斷除せしめ、畢竟じて永く淸淨ならしめんと欲することを明す。又「淸淨」と言ふは、下の觀門に依て專心に念佛し、想を西方に注がしむれば、念念に罪除こるが故に淸淨なり。
二に「善哉」より已下は、正しく夫人の問聖意に當ることを明す。
三に「阿難汝當受持」より下「宣説佛語」に至る已來は、正しく勸持勸説を明す。此の法深要なり、好く須く流布すべし。此れ如來前に則ち總じて告げて、安心聽受せしむ。此の文は則ち別して阿難に敕して、受持して忘るること勿く、廣く多人の處にして爲に説きて流行せしむることを明す。「佛語」と言ふは、此れ如來曠劫に已に口過を除きて、言説有るに隨ひて、一切聞く者自然に信を生ずることを明す。
四に「如來今者」より下「得無生忍」に至る已來は、正しく勸修得益の相を明す。此れ如來夫人及び未來等の爲に、觀の方便を顯して、想を西方に注めしめて、娑婆を捨厭し、極樂を貪欣せしめんと欲することを明す。「以佛力故」と言ふ已下は、此れ衆生の業障、目に觸るるも生盲なれば、掌を指すも他方に遠ざかると謂ひ、竹篾を隔つるも即ち之を千里に踰ゆとす。豈況や凡夫分外の諸佛の境、内心に闚はんや。聖力の冥に加するに非ざるよりは、彼の國何に由てか覩ることを得んといふことを明す。「如執明鏡自見面像」と言ふ已下は、此れ夫人及び衆生等、入觀して心を住せしめ、神を凝らして捨てざれば、心境相應して悉く皆顯現することを明す。境現ずる時に當りて、鏡の中に物を見るに異なること無きが如似し。「心歡喜故得忍」と言ふは、此は阿彌陀佛國の淸淨の光明、忽に眼の前に現ぜん、何ぞ踊躍に勝へん。茲の喜に因るが故に、即ち無生の忍を得ることを明す。