四には修因正念にして疑を雜ふることを得ざれといふことを明す。往生を得と雖も、華に含みて未だ出でず。或は邊界に生じ、或は宮胎に墮せん。或は大悲菩薩の開華三昧に入りたまふに因て、疑障乃ち除こりて、宮華開發し、身相顯然なり。法侶携へ將て佛會に遊ばしむ。斯に乃ち心を注めて寶地を見るに、即ち宿障の罪を滅す。願行の業已に圓かにして、命盡きて往かざることを疑ふこと無し。今既に斯の勝益を觀る、更に勸めて邪正を辨知せしむ。
六に「作是觀」より已下は、正しく觀の邪正を辨ずることを明す。邪正の義は前の日觀の中に已に説きつ。
上來六句の不同有りと雖も、廣く地觀を明し竟んぬ。
[四、寶樹觀]
四に寶樹觀の中に就て、亦先づ擧げ、次に辨じ、後に結す。即ち其の十有り。一に佛告阿難より下次觀寶樹に至る已來は、正しく告命して總じて觀の名を擧げて、前を結して後を生ずることを明す。二に觀寶樹と言ふは、重ねて觀の名を牒す。一一觀之と言ふ已下は、後の觀の相を生じて正しく儀則を敎ふ。此彌陀の淨國廣闊にして無邊なることを明す。寶樹・寶林、豈七行を以て量と爲さむや。今七重と言ふは、或は一樹有り、黄金を根と爲し、紫金を莖と爲し、白銀を枝と爲し、碼碯を條と爲し、珊瑚を葉と爲し、白玉を華と爲し、眞珠を菓と爲す。是くのごとき七重互ひに根・莖、乃至華・菓等を爲せば、七七四十九重なり。或は一寶を一樹と爲す者、或は二・三・四、乃至百千萬億不可説の寶を一樹と爲す者有り。此の義、彌陀經義の中に已に廣く論じ竟んぬ。故に七重と名く。行と言ふは、彼の國の林樹多しと雖も、行行整直にして雜亂無し。想と言ふは、未だ眞觀を閑ひて自在に心に隨はざれば、要ず假想に藉りて以て心を住めて、方に能く益を證す。三に一一より下由旬に至る已來は、正しく樹の體と量とを明す。此諸の寶林樹、皆彌陀無漏の心中より流出することを明す。