一には除罪の益を明し、二には得生の益を明す。
十九に「作是觀者」より下「名爲邪觀」に至る已來は、正しく觀の邪正の相を辨ずることを明す。斯れ乃ち華は寶地に依り、葉は奇珍を間へ、臺は四幢を瑩かし、光は佛事を施す。上來十九句の不同有りと雖も、廣く華座觀を明し竟んぬ。
[八、像觀]
八に像觀の中に就て、亦先づ擧げ、次に辨じ、後に結す。即ち其の十三有り。
一に「佛告阿難」より下「次當想佛」に至る已來は、正しく前を結し後を生ずることを明す。「所以者何」と言ふは、是其の問なり。佛を想ふべき所以は何んとなり。
二に「諸佛如來」より下「心想中」に至る已來は、正しく諸佛の大慈、心に應じて即ち現じたまふことを明す。斯の勝益有るが故に、汝を勸めて之を想はしむとなり。問て曰く。韋提の上の請には、唯彌陀を指す。未審し、如來今總じて諸佛を擧げたまふ、何の意か有るや。答て曰く。諸佛は三身同じく證し、悲・智果圓かなること、等齊にして二無く、端身一坐にして、影現すること無方なり。意有縁に赴き、時法界に臨むことを顯さんと欲す。「法界」と言ふは三義有り。一には心徧ずるが故に法界を解る、二には身徧ずるが故に法界を解る、三には障礙無きが故に法界を解る。正しくは心到るに由るが故に、身亦隨ひて到る。身は心に隨ふが故に、「是法界身」と言ふ。「法界」と言ふは、是所化の境、即ち衆生界なり。「身」と言ふは、是能化の身、即ち諸佛の身なり。「入衆生心想中」と言ふは、乃ち衆生念を起して、諸佛を見たてまつらんと願ずるに由て、佛即ち無礙の智を以て知り、即ち能く彼の想心の中に入りて現じたまふ。但諸の行者、若しは想念の中、若しは夢定の中に佛を見たてまつるは、即ち斯の義を成ずるなり。
三に「是故汝等」より下「從心想生」に至る已來は、正しく利益を結勸することを明す。此れ心を標して佛を想ふことを明す。但佛解を作して頂より足に至るまで、心に想ひて捨てず、