復二種有り。一には一心に彌陀の名號を專念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念念に捨てざる者は、是を正定の業と名く。彼の佛願に順ずるが故に。若し禮誦等に依らば、即ち名けて助業と爲す。此の正助二行を除きて、已外の自餘の諸善は、悉く雜行と名く。若し前の正助二行を修するは、心常に親近し、憶念斷えず、名けて無間と爲す。若し後の雜行を行ずるは、即ち心常に間斷す。廻向して生を得べしと雖も、衆て疎雜の行と名くるなり。故に「深心」と名く。
[上品上生釋 廻向發願心譯]
「三者廻向發願心」。「廻向發願心」と言ふは、過去及以び今生の身口意業に修する所の世・出世の善根、及び他の一切の凡聖の身口意業に修する所の世・出世の善根を隨喜して、此の自他の所修の善根を以て、悉く皆眞實の深信の心の中に廻向して彼の國に生ぜんと願ず。故に「廻向發願心」と名くるなり。又廻向發願して願じて生ずる者は、必ず決定して眞實心の中に廻向したまへる願を須ひて得生の想を作せ。此の心深信せること金剛の若くなるに由て、一切の異見・異學・別解・別行の人等の爲に動亂破壞せられず。唯是決定して、一心に投して正直に進みて、彼の人の語を聞くことを得ざれ。即ち進退の心有りて、怯弱を生じて廻顧すれば、道に落ちて即ち往生の大益を失するなり。 問て曰く。若し解行不同の邪雜の人等有りて、來りて相惑亂して、或は種種の疑難を説きて、往生を得ずと噵ひ、或は云はん、汝等衆生、曠劫より已來及以び今生の身口意業に、一切凡聖の身の上に於て、具に十惡・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、未だ除盡すること能はず。然るに此等の罪は三界の惡道に繋屬す。云何ぞ一生の修福の念佛をして、即ち彼の無漏・無生の國に入りて、永く不退の位を證悟することを得んや。答て曰く。諸佛の敎行、數塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に隨ひて一に非ず。譬へば世間の人、眼に見るべく信ずべきが如きは、