釋迦牟尼佛等、一切の三寶に南無したてまつる。我今稽首して禮し、回して無量壽國に往生せんと願ず。

此の一佛は、現に是今時道俗等の師なり、三寶と言ふは、即ち是福田無量なり。若し能く之を禮すること一拜すれば、即ち是師恩を念報し、以て己行を成ず。斯の一行を以て回して往生を願ず。

十方三世、盡虚空徧法界、微塵刹土中の一切の三寶に南無したてまつる。我今稽首して禮し、回して無量壽國に往生せんと願ず。

然るに十方虚空無邊にして、三寶無盡なり。若し禮すること一拜すれば、即ち是福田無量、功德無窮なり。能く心を至して之を禮すること一拜すれば、一一佛上、一一法上、一一菩薩聖僧上、一一舍利上、皆身口意業に解脱分の善根を得、來りて行者を資益し、以て己が業を成ず。斯の一行を以て、回して往生を願ず。

西方極樂世界の阿彌陀佛に南無したてまつる 願はくは衆生と共に咸く歸命せん 故に我頂禮して彼の國に生ぜん

問て曰く。何が故ぞ阿彌陀と號する。答て曰く。『彌陀經』及び『觀經』に云く。彼の佛の光明は無量にして、十方國を照らすに障礙する所無し。唯念佛の衆生を觀はして、攝取して捨てざるが故に阿彌陀と名く。彼の物の壽命、及び其の人民も無量無邊阿僧祇劫なり。故に阿彌陀と名く。又釋迦佛及び十方の佛彌陀の光明に十二種の名有ることを讚歎し、普く衆生を勸む。稱名し禮拜し相續して斷えざれば、現世に無量の功德を得、命終の後定んで往生を得ん。『無量壽經』(卷上意)に説きて云ふが如し。「其れ衆生有りて斯の光に遇ふ者は、三垢消滅し身意柔輭なり。歡喜踊躍し善心生ず。