即ち蓮を胎に託せんことを願はずして、而も悠悠たる生死に留りて、龍華會に至ることを期せんや。何に況や若し適々極樂に生ぜば、晝夜念に隨ひて覩率宮に往來し、乃至龍華會の中に、新に對揚の首と爲らんこと、猶し富貴にして故鄕に歸らんが如し。誰の人か此の事を欣樂せざらんや。若し別縁有らば、餘の方も亦佳し。凡そ意樂に隨ふべし、異執を生ずること勿れ。故に感法師(群疑論卷四)云く。「兜率を志求する者は、西方の行人を毀ること勿れ。西方に生れんと願ふ者は、兜率の業を毀ること莫れ。各々性欲に隨ひ、情に任せて修學せよ。相是非すること莫れ。何ぞ但勝處に生ぜざるのみならん、亦乃ち三途に輪轉せん」と。云云
[四、正修念佛]
大文第四に正修念佛とは、此に亦五有り。世親菩薩の『往生論』に云ふが如し。「五念門を修め行成就しぬれば、畢竟じて安樂國土に生じて彼の阿彌陀佛を見たてまつることを得。一には禮拜門、二には讃嘆門、三には作願門、四には觀察門、五には回向門なり」と。云云 此の中に、作願・回向の二門は、諸の行業に於て、應に通じて之を用ふべし。
[四、正修念佛 禮拜門]
初に禮拜門とは、是即ち三業相應の身業なり。一心に歸命し五體を地に投げて、遙に西方の阿彌陀佛を禮したてまつること、多少を論ぜず、但誠心を用てせよ。或は應に『觀佛三昧經』(卷一〇)の文を念ふべし。「我今一佛を禮したてまつるは即ち一切の佛を禮したてまつるなり。若し一佛を思惟すれば即ち一切の佛を見たてまつるなり。一一の佛の前に、一の行者有りて接足して禮を爲すは、皆是己が身なり」と。私に云く、一佛と一切佛とは、是彌陀の分身、或は是十方一切の諸佛なり 或は應に念ふべし。「能禮・所禮性空寂なり。自身・他身體無二なり。願はくは衆生と共に道を體解して、無上の意を發して眞際に歸らん」と。或は應に『心地觀經』(卷二)の六種の功德に依るべし。「一には無上大功德田。二には無上大恩德。三には無足・二足及以び多足の衆生の中の尊なり。四には極めて値遇し難きこと、優曇華の如し。五には獨り三千大千世界に出でたまふ。