[四、正修念佛 作願門 料簡]
三に料簡とは、 問。『入法界品』(晋譯華嚴經卷五九)に云く。「譬へば金剛は金性より生じて、餘寶より生ずるに非ざるが如く、菩提心の寶も亦復是の如し。大悲もて衆生を救護する性より生じて、餘の善より生ずるには非ず」と。『莊嚴論』(卷六)の偈に云く。「恒に地獄に處すと雖も、大菩提を障へず。若し自利の心を起さば、是大菩提の障なり」と。又『丈夫論』(大丈夫論卷上)の偈に云く。「悲心もて一人に施すは、功德の大なること地の如し。己が爲に一切に施すは、報を得ること芥子の如し。一の厄難の人を救ふは、餘の一切の施に勝れり。衆星は光有りと雖も、一の月の明かなるに如かず」と。已上 明けし、自利の行は是菩提心の所依に非ざれば、報を得ること亦少し、云何が獨り速に極樂に生れんと願ふや。答。豈前に言はずや、極樂を願はん者は要ず四の弘願を發し、願に隨ひて勤修せよと。此れ豈是大悲心の行に非ずや。又極樂を願求するも、是自利の心に非ず。然る所以は、今此の娑婆世界は諸の留難多し。甘露未だ沾はず苦海朝宗す。初心の行者、何の暇ありてか道を修せん。故に今菩薩の願行を圓滿して、自在に一切衆生を利益せんと欲するが爲に、先づ極樂を求むるなり。自利の爲にせず。『十住毘婆沙』(卷一)に云ふが如し。「自ら未だ度することを得ずしては彼を度すること能はず。人の自ら於泥に沒せるが如き、何ぞ能く餘の人を拯濟せん。又水の爲に㵱さらるるものは溺れたるものを濟ふこと能はざるが如し。是の故に説く、我度し已りて當に彼を度すべし」と。又『法句』の偈に説くが如し。「若し能く自ら身を安じて、善き處に在らば、然して後餘人を安じて、自らと所利を同じくせよ」と。已上 故に『十疑』に言く。「淨土に生ずることを求むる所以は、一切衆生の苦を救拔せんと欲するが故なり。即ち自ら思忖すらく。我今力無し。若し惡世煩惱の境の中に在らば、境強きを以ての故に、自ら纏縛せられて三塗に淪溺し、動もすれば數劫を經ん。此の如く輪轉すること無始より已來、未だ曾て休息せず、何れの時にか能く衆生の苦を救ふことを得ん。此が爲に淨土に生れ、諸佛に親近し、無生忍を證して、方に能く惡世の中於して衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。已上 餘の經論の文は、