[四、正修念佛 觀察門 雜略觀]
三に雜略觀とは、彼の佛の眉間には一の白毫有り。右に旋りて宛轉せること、五須彌の如し。中に於て復八万四千の好有り、一一の好に八万四千の光有り。其の光微妙にして衆寶の色を具せり。總じて之を言へば、七百五倶六百万の光明なり。十方面ごとに赫奕たること億千の日月の如し。其の光の中に一切の佛身を現ず。无數の菩薩、衆會して圍遶せり。復微妙の音を出して、諸の法海を宣暢す。又彼の一一の光明は、遍く十方世界を照らし、念佛の衆生をば攝取して捨てたまはず。我亦彼の攝取の中に在れども、煩惱眼を障へて見たてまつるに能はずと雖も、大悲倦きこと无くして、常に我身を照らしたまふ。或は應に自心を起して極樂國に生じ、蓮華の中に、結跏趺坐し、蓮華合するの想を作せ。尋で蓮華開く時尊顏を瞻仰し、白毫の相を觀たてまつる。時に五百色の光有り、來りて我が身を照らすに、即ち无量の化佛・菩薩の虚空の中に滿てるを見る。水鳥・樹林及與び諸佛の出す所の音聲は皆妙法を演ぶ。是の如く思想して心をして欣悅せしよ。願はくは諸の衆生と共に安樂國に往生せん。已上『觀經』『花嚴經』等の意に依る。具には別卷に在り 若し極略を樂ふ者は、應に念ずべし、彼の佛の眉間の白毫の相は、旋轉せること猶し頗梨珠の如し。光明は遍く照らして我等を攝めたまふ。願はくは衆生と共に彼の國に生ぜんと。若し相好を觀念するに堪へざるもの有らば、或は歸命の想に依り、或は引攝の想に依り、或は往生の想に依て、應に一心に稱念すべし。已上意樂不同なり。故に種種の觀を明かす 行住坐臥、語默作作に、常に此の念を以て胸の中に在くこと、飢えて食を念ふが如く、渇して水を追ふが如くせよ。或は頭を低れ手を擧げ、或は聲を擧げ名を稱へ、外儀は異なりと雖も、心念は常に存せよ。念念に相續して、寤寐に忘るること莫れ。 問。彼の佛の眞身は、是凡夫の心力の及ぶ所に非ず、但應に像を觀ずべし、何ぞ大身を觀ぜんや。答。『觀經』に云く。「无量壽佛は身量无邊にして、是凡夫の心力の及ぶ所に非ず。然るに彼の如來の宿願力の故に、憶想すること有る者は、必ず成就することを得しむ。但佛像を想ふすら無量の福を得、