彌勒菩薩は、晝夜に各々三び、衣を正して體を束ね、手を叉へ右の膝を地に着け、十方に向ひて偈を説きて言はく。我一切の過を悔い、勸めて衆の道德を明らして、諸佛を歸命し禮したてまつる。无上の慧を得しめたまへと。佛阿難に語りたまはく。彌勒菩薩は、是の善根を以て无上正眞の道を得たまへり」と。已上  問。此の懺悔と勸請等の事を修せば、幾處の福をか得るや。答。『十住論』(卷六)の偈に云く。「若し一時の中に於て福德形有らば、恒河沙の世界も乃ち自ら容受せず」と。
[五、助念方法 對治魔事]
第六に對治魔事とは、 問。種種の魔事能く正道を障ふ。或は病患を發さしめ、或は觀念を失せしめ、或は邪法を得しむ。所謂若しは有の見若しは无の見、若しは明了若しは昏闇、若しは邪定若しは攀縁、若しは悲若しは喜、若しは苦若しは樂、若しは禍若しは福、若しは惡若しは善、若しは人を憎み若しは戀着す、若しは心強く若しは心軟なり。是の如き等の事の、若しは過ぎ、若しは及ばざる、皆是魔事にして、悉く正道を障ふ。何を以てか之を對治せん。答。治道多しと雖も、今は但應に念佛の一治に依るべし。此の中に亦事・理有り。一に事の念とは、言行相應して一心に念佛する時、諸の惡魔沮壞すること能はず。 問。何が故ぞ壞せざる。答。佛護念したまふが故に、法の威力の故に、沮壞すること能はず。『大般若』(卷三四六)に、魔事を對治するに番番の二法を出すが如し。其の中に云く。「一には言ふ所の如く皆悉く能く作す。二には諸佛の爲に常に護念せらる」と。又『般舟經』(卷中意)に云く。「若し叉鬼神、人の禪を壞り人の念を奪はんも、設し是の菩薩を中らんと欲せば、終に中ること能はず」と云云。餘は下の利益門の如し。二に理の念とは、『止觀』の第八(下)に云ふが如し。「魔界の如と佛界の如とは一如にして二如无し。平等一相なりと知り、魔を以て戚と爲し、佛を以て欣と爲さず、之を實際に安く。乃至 魔界は即ち佛界なれども、衆生は知らずして、佛界に迷ひて橫に魔界を起し、菩提の中に於て而も煩惱を生ず。