若しは行若しは坐若しは臥、恒に當に心を至して分散の意无く、佛陀・達摩・僧伽の名を稱して、乃ち一の木槵子を過くるべし。是の如くして若しは十若しは廾、若しは百若しは千、乃至百千万せよ。若し能く廿万遍を滿たすまで、身心亂れずして、諸の諂曲无くば、捨命して第三の炎摩天に生ずることを得、衣食自然にして常に安樂を受けん。若し復能く一百萬遍を滿たさば、當に百八の結業を除斷することを得て、生死の流に背き涅槃の道に趣きて无上の果を獲べし」と。略抄 況や復諸の聖敎の中には、多く念佛を以て往生の業と爲す。其の文甚だ多し。略して十文を出さん。一に『占察經』の下卷に云く。「若し人他方の現在の淨國に生ぜんと欲すれば、當に彼の世界の佛の名字に隨ひて、意を專にして誦念すべし。一心不亂にして上の如く觀察せば、決定して彼の佛の淨國に生ずること得、善根增長して速に不退を成ぜん」と。上の如き觀察とは、地藏菩薩の法身及び諸佛の法身は、己自身と平等にして二无く、不生不滅・常樂我淨・功德圓滿と觀ずるなり。又己身无常なること幻の如く、厭ふべしと觀ずる等なり 二に『雙卷經』(大經卷上)の三輩の業、淺深有りと雖も、然るに通じて皆「一向專念无量壽佛」と云へり。三に四十八願(大經卷上)の中に、念佛門に於て別して一の願を發して云く。「乃至十念、若不生者、不取正覺」と。四に『觀經』(意)に「極重の惡人他の方便无し、唯佛を稱念して極樂に生ずることを得」と。五に同じき『經』(觀經)に云く。「若し心を至して西方に生ぜんと欲はば、先づ當に一の丈六の像の池水の上に在ますを觀ずべし」と。六に同じき『經』(觀經)に云く。「光明遍く十方世界を照らしたまふ、念佛の衆生をば攝取して捨てたまはず」と。七に『阿彌陀經』に云く。「少善根福德の因縁を以て彼の國に生ずることを得べからず。若し善男子・善女人有りて、阿彌陀佛を説くを聞きて、名号を執持すること、若しは一日乃至若しは七日、一心にして亂れざれば、其の人命終の時に臨みて、阿彌陀佛、諸の聖衆と與に現じて其の前に在まさん。是の人終る時、心顛倒せずして、即ち往生することを得ん」と。八に『般舟經』(卷上)に云く。