是の處有ること无けん」と。已上 又『安樂集』(卷上)に七喩を以て此の義を顯す。一には少火の喩。前の如し。二には癖たる者他の船に寄載すれば、風帆の勢に因て一日に千里に至る。三には貧人一の端物を獲て以て王に貢るに、王慶びて重く賞し、斯須くの項に、富貴望に盈つ。四には劣夫も、若し輪王の行に從へば便ち虚空に乘じて飛騰自在なり。五には十圍の索の喩。前の如し。六には鴆鳥水に入れば魚蜯斯に斃れて皆死し、犀角もて諸に觸るれば死せる者還活る。七には黄鵠子安を喚ぶに、子安還活る。豈墳下に千齡なるもの決して甦るべきこと无しと言ふことを得べけんや。一切の万法は、皆自力・他力、自攝・他攝にして、千開万閉无量无邊なり、豈有碍の識を以て彼の无碍の法を疑ふことを得んや。又五の不思議の中には、佛法最も不可思議なり。豈三界の繋業を以て重しと爲し、彼の少時の念法を疑ひて輕しと爲んやと。已上略抄 今之に加へて云く。一には旃檀の樹出成する時は、能く四十由句の伊蘭林を變じて、普く皆香美ならしむ。二には師子の筋を用て、以て琴の絃と爲るに、音聲一たび奏すれば、一切の餘の絃、悉く皆斷壞す。三には一斤の石汁能く千斤の銅を變じて金と爲す。四には金剛堅固なりと雖も、羖羊の角を以て之を扣けば、則ち灌然として氷の如く洋く。已上滅罪の譬 五には雪山に草有り、名けて忍辱と爲す。牛若し食すれば即ち醍醐を得。六には沙訶陀藥に於て但見ること有る者は、壽を得ること无量なり。乃至念ずる者は、宿命智を得。七には孔雀雷の聲を聞けば、即ち有身を得。八には尸利沙昴星を見ればて則ち菓實を出生す。已上生善の譬 九には住水寶を以て其の身に瓔珞とすれば、深き水中に入るとも而も沒溺せず。十には沙礫は小なりと雖も尚浮ぶこと能はず、磐石は大なりと雖も船に寄すれば能く浮ぶ。已上總譬 諸法の力用思ひ難きこと是の如し。念佛の功力之に准じて疑ふこと莫れ。 問。臨終の心念、其の力幾許ぞなれば能く大事を成ずるや。答。其の力百年の業に勝れり。故に『大論』(卷二四)に云く。「是の心は時の項少しと雖も、