下一念に至るまで大利を得、すなわち功徳の宝を具足すとす。たとい大千世界に満てらん火をも、また直ちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かば、また退せず。このゆえに心を至して稽首し礼したてまつる」と。
また云わく、また『目連所問経』のごとし。仏、目連に告げたまわく、「たとえば万川長流に草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといえども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるに由って、後世に人となって、更にはなはだ困劇して千仏の国土に生まるることを得ることあたわず。このゆえに我説かく、無量寿仏国は往き易く取り易くして、人修行して往生することあたわず。かえって九十五種の邪道に事う。我この人を説きて、「眼なき人」と名づく、「耳なき人」と名づく」と。経教すでにしかなり。何ぞ難を捨てて易行道に依らざらん、と。
已上
(往生礼讃)光明寺の和尚の云わく、また『文殊般若』に云うがごとし。「一行三昧を明かさんと欲う。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨て、心を一仏に係けて、相貌を観ぜず、専ら名字を称すれば、すなわち念の中において、かの阿弥陀仏および一切仏等を見たてまつるを得」といえり。問うて曰わく、何がゆえぞ観を作さしめずして、直ちに専ら名字を称せしむるは、何の意かあるや。答えて曰わく、いまし衆生障重くして、境は細なり、心は麁なり、識颺り、神飛びて、観成就しがたきに由ってなり。ここをもって、大聖悲憐して、直ちに勧めて専ら名字を称せしむ。正しく称名、易きに由るがゆえに、相続してすなわち生ずと。問うて曰わく、すでに専ら一仏を称せしむるに、何がゆえぞ境、現ずることすなわち多き。これ、あに