真実心なり。これを「至心」と名づく。
すでに「真実」と言えり。「真実」というは、
回向利益他之真実心。是名至心。既言真実。言真実者、
『涅槃経』に言わく、実諦は一道清浄にして二あることなきなり。「真実」というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり。虚空はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ仏性なり。仏性はすなわちこれ真実なり、と。已上
『釈』
(散善義)に、「不簡内外明闇」と云えり。「内外」とは、「内」はすなわちこれ出世なり、「外」はすなわちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなわちこれ出世なり、「闇」はすなわちこれ世間なり。また「明」はすなわち智明なり、「闇」はすなわち無明なり。
釈云不簡内外明闇。内外者内者即是出世、外者即是世間。明闇者明者即是出世、闇者即是世間。又復明者即智明、闇者即無明也。
『涅槃経』に言わく、「闇」はすなわち世間なり、「明」はすなわち出世なり。「闇」はすなわち無明なり、「明」はすなわち智明なり、と。已上
次に「信楽」というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり。このゆえに疑蓋間雑あることなし、かるがゆえに「信楽」と名づく。すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。しかるに無始より已来、一切群生海、無明海に流転し、
次言信楽者則是如来満足大悲・円融無碍信心海。是故疑蓋無有間雑、故名信楽。即以利他回向之至心為信楽体也。然従無始已来、一切群生海、流転無明海、