と。王すなわち問うて言わまく、何等をか名づけて「月愛三昧」とする、と。耆婆答えて言わまく、たとえば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆえに名づけて「月愛三昧」とす。たとえば月の光よく一切、路を行く人心に、歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたかくのごとし、よく涅槃道を修習せん者の心に、歓喜を生ぜしむ。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 諸善の中の王なり、甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆえにまた「月愛三昧」と名づく、と。乃至 その時に、仏、もろもろの大衆に告げて言わく、一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。何をもってのゆえに。阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日、必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆえに日に近づきにたり、善友にしくことなかれ。阿闍世王また前路において聞く、「舎婆提に毘瑠璃王、船に乗じて海辺に入りて、災して死ぬ。瞿伽離比丘、生身に、地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多は、種種の悪を作りしかども、仏所に到りて衆罪消滅しぬ」と。この語を聞き已りて、耆婆に語りて言わく、吾今かくのごときの二つの語を聞くといえども、なお未だ審かならず。定んで汝来れり、耆婆、吾、汝と同じく一象に載らんと欲う。たとい我当に阿鼻地獄に入るべくとも、冀わくは汝捉持して、我をして堕さしめざれと。何をもってのゆえに。吾昔かつて聞きき、得道の人は地獄に入らず、と。乃至 (仏、阿闍世に告げたまわく)云何ぞ説きて定んで地獄に入ると言わん。大王、一切衆生の所作の罪業におよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るは、すなわち名づけて「軽」とす。身と口と心とに作るは、すなわち名づけて「重」とすと。