『論註』に曰わく、「還相」とは、かの土に生じ已りて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かえしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。このゆえに「回向を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに」
(論)と言えりと。
また言わく、「すなわちかの仏を見れば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆえに」とのたまえり。「平等法身」とは、八地已上の法性生身の菩薩なり。
(「寂滅平等」とはすなわちこの法身の菩薩の所証の)寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもってのゆえに、名づけて「平等法身」とす。平等法身の菩薩の所得なるをもってのゆえに、名づけて「寂滅平等の法」とするなり。この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもって、よく一処、一念、一時に十方世界に遍じて、種種に一切諸仏および諸仏大会衆海を供養す。善く無量世界に仏法僧ましまさぬところにして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、常に仏事を作す。初めに往来の想・供養の想・度脱の想なし。このゆえにこの身を名づけて「平等法身」とす。この法を名づけて「寂滅平等の法」とす。「未証浄心の菩薩」とは、初地已上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもってのゆえに、名づけて「未証浄心」とす。この菩薩、安楽浄土に生まれて、すなわち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と、