人天も、またかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じて当に清浄法身を得べし。当に得べきをもってのゆえに、清浄と名づくることを得るなりと。
「善巧摂化」とは、「かくのごとき菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して、柔軟心なり」
(論)とのたまえり。柔軟心とは、謂わく広略の止観、相順し修行して、不二の心を成ぜるなり。譬えば水をもって影を取るに、清と静と相資けて成就するがごとしとなり。「実のごとく広略の諸法を知る」
(論)とのたまえり。如実知とは、実相のごとくして知るなり。広の中の二十九句、略の中の一句、実相にあらざることなきなり。「かくのごとき巧方便回向を成就したまえり」
(論)とのたまえり。「かくのごとき」というは、前後の広略、みな実相なるがごときなり。実相を知るをもってのゆえに、すなわち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなわち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。「何者か菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、謂わく礼拝等の五種の修行を説く。所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆえに、作願して一切衆生を摂取して、共に同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく」
(論)とのたまえり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生の中に、行に優劣ありといえども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなわちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなわちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなわちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆえにかの安楽浄土に生まれんと願ずる者は、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただ