光明を見ば、みな休息を得て、また苦悩なけん。寿終えての後、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀して、聞こえざることなし。ただ我いまその光明を称するにあらず、一切諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとく共に嘆誉すること、またかくのごとし。もし衆生ありて、その光明威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随いて、その国に生まるることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、共にその功徳を嘆誉し称せられん。それしこうして後、仏道を得る時に至りて、普く十方の諸仏菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、また今のごときならん」となり。仏の言わく、「我無量寿仏の光明威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、尚未だ尽くすことあたわじ」と。
仏阿難に語りたまわく、「無量寿仏は、寿命長久にして勝計すべからず。汝むしろ知らんや。たとい十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべて共に集会して、思いを禅らにし、心を一つにして、その智力を竭して、百千万劫において、ことごとく共に推算して、その寿命の長遠の数を計えんに、窮尽してその限極を知ることあたわじ」と。
抄出
『無量寿如来会』に言わく、阿難、この義をもってのゆえに、無量寿仏また異名まします。謂わく、無量光・無辺光・無着光・無碍光・光照王・端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光なり。かの光明、清浄広大にして、普く衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹の中の天・龍・夜叉・阿修羅等、みな歓悦を得しむ、と。
已上
『無量清浄平等覚経』に言わく、速疾に超えて、すなわち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、