「大丈夫」と名づく、また「天人師」と名づく、また「大分陀利」と名づく、また「独無等侶」と名づく、また「大福田」と名づく、また「大智海」と名づく、また「無相」と名づく、また「具足八智」と名づく。かくのごとき一切、義異名異なりと。善男子、これを無量義の中に無量の名を説くと名づく。また一義に無量の名を説くことあり。いわゆる陰のごとし。また名づけて「陰」とす、また「顛倒」と名づく、また名づけて「諦」とす、また名づけて「四念処」とす、また「四食」と名づく、また「四識住処」と名づく、また名づけて「有」とす、また名づけて「道」とす、また名づけて「時」とす、また名づけて「衆生」とす、また名づけて「世」とす、また「第一義」と名づく、また「三修」と名づく、謂わく身・戒・心なり、また「因果」と名づく、また「煩悩」と名づく、また「解脱」と名づく、また「十二因縁」と名づく、また「声聞・辟支仏」と名づく、仏をまた「地獄・餓鬼・畜生・人・天」と名づく、また「過去・現在・未来」と名づく、これを「一義に無量の名を説く」と名づく。善男子、如来世尊、衆生のためのゆえに、広の中に略を説く、略の中に広を説く。第一義諦を説きて世諦とす。世諦の法を説きて第一義諦とす」と。
略出
(梵行品)また言わく、迦葉また言さく、「世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づく」と。
乃至
(迦葉品)また言わく、善男子、我『経』の中に如来の身を説くに、おおよそ二種あり。一つには生身、二つには法身なり。生身と言うは、すなわちこれ方便応化の身なり。かくのごときの身は、これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学と言うことを得べし。我がもろもろの弟子、この説を聞き已りて、我が意を解らざれば、