れども、ことさら了了ならず。十住の菩薩、ただ能く自ら定んで阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたわず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに仏性を聞見す。菩薩もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば聞見と名づけずと。
乃至
師子吼菩薩摩訶薩言さく、「世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたわず、当にいかんが観じて知ることを得べしや」と。「善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたわず。もし観察して知ることを得んと欲わば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。もし如来所有の身業を見たてまつらんは、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来所有の口業を観ぜん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生の与に等しき者なけん。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ。当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにあらず、当に知るべし。これすなわち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもって衆生を観そなわす時、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、当に知るべし、これすなわち如来とするなり。これを聞見と名づく。
略出
『浄土論』に曰わく、世尊、我一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生まれんと願ず。