定んで来果を招く。果をもって因に応ず。かるがゆえに名づけて報とす。また三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。いま既に道成ぜり。すなわちこれ応身なり。これすなわち過現の諸仏、三身を弁立す。これを除きて已外は、更に別の体ましまさず。たとい無窮の八相、名号塵沙なり、体に剋してしかして論ぜば、すべて化に帰して摂す。今かの弥陀、現にこれ報なり、と。
問うて曰わく、既に報と言わば、報身常住にして永く生滅なし。なにがゆえぞ『観音授記経』に説かく、阿弥陀仏また入涅槃の時ありと。この一義いかんが通釈せんや。答えて曰わく、入・不入の義は、ただこれ諸仏の境界なり。なお三乗浅智の闚うところにあらず。あに況や小凡輙くよく知らんや。しかりといえども、必ず知らんと欲わば、敢て仏経を引きてもって明証とせん。いかんとならば、『大品経』の涅槃非化品の中に説きて云うがごとし。仏、須菩提に告げたまわく、「汝が意においていかん。もし化人ありて化人を作す、この化すこぶる実事ありやいなや。空しきものなりやいなや。」須菩提の言さく、「いなや、世尊。」仏、須菩提に告げたまわく、「色すなわちこれ化なり、受・想・行・識すなわちこれ化なり、乃至一切種智すなわちこれ化なり。」須菩提、仏に白して言さく、「世尊、もし世間の法これ化なりや、出世間の法またこれ化なりやと。いわゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いわゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや」と。仏、須菩提に告げたまわく、「一切の法、みなこれ化なり。この法の中において、声聞の法の変化あり。辟支仏の法の変化あり。菩薩の法の変化あり。諸仏の法の変化あり。煩悩の法の変化あり。業因縁の法