「臨終現前の願」と名づく、また「現前導生の願」と名づく、また「来迎引接の願」と名づく。また「至心発願の願」と名づくべきなり。
復名現前導生之願、復名来迎引接之願。亦可名至心発願之願也。
ここをもって、『大経』の願に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、我が国に生まれんと欲わん。寿終の時に臨んで仮令大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずは、正覚を取らじ、と。
『悲華経』の「大施品」に言わく、願わくは我阿耨多羅三藐三菩提を成り已らんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、我が界に生まれんと欲わん者、臨終の時、我当に大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。その人我を見て、すなわち我が前にして心に歓喜を得ん。我を見るをもってのゆえに、もろもろの障閡を離れて、すなわち身を捨てて、我が界に来生せしめん、と。
已上
この願成就の文は、すなわち三輩の文これなり。『観経』の定散九品の文これなり。
此願成就文者即三輩文是也、観経定散九品之文是也。
また『大経』に言わく、また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもって、これを荘厳せり。
乃至 阿難、もしかの国の人天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには