如来、菩薩の行を行じたまう時、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心の中に作したまうに由るがゆえに、疑蓋雑わることなし。如来、清浄真実の信楽をもって、諸有の衆生に回向したまえり。
行菩薩行時、乃至一念一刹那、三業所修、皆是真実心中作故、疑蓋無雑。如来、以清浄真実信楽、回向諸有衆生。
本願成就の文、『経』(大経)に言わく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。抄出
聖言、明らかに知りぬ。いまこの心、すなわちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心すなわちこれ大悲心なるがゆえに、疑蓋あることなし。
三つには「欲生」、すなわち清浄真実の信心をもって欲生の体とす。しかるに、流転輪回の凡夫、曠劫多生の群生、清浄の回向心なし、また真実の回向心なし。これをもって、如来因中に菩薩の行を行じたまう時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向を首として、大悲心を成就することを得たまうにあらざることあることなし。かるがゆえに、如来、清浄真実の欲生心をもって、諸有の衆生に回向したまえり。
聖言、明知。今斯心、即是、本願円満清浄真実信楽、是名信心。信心即是大悲心故、無有疑蓋。
三者欲生、即以清浄真実信心為欲生体。然、流転輪回凡夫、曠劫多生群生、無清浄回向心、亦無真実回向心。是以、如来因中行菩薩行時、三業所修、乃至一念一刹那、無有非回向為首、得成就大悲心。故、如来、以清浄真実欲生心、回向諸有衆生。
本願成就の文、『経』(大経)に言わく、「至心回向したまえり、かの国に願生すれば、すなわち往生を得、