源信和尚は、「報土にうまるる人はおおからず。化土にうまるる人はすくなからず。」(往生要集意)とのたまえり。「其国不逆違 自然之所牽」というは、其国はそのくにという、すなわち安養浄刹なり。不逆違は、さかさまならずという、たがわずというなり。逆はさかさまという。違はたがうというなり。真実信をえたる人は、大願業力のゆえに、自然に浄土の業因たがわずして、かの業力にひかるるゆえにゆきやすく、無上大涅槃にのぼるにきわまりなし、とのたまえるなり。しかれば、自然之所牽ともうすなり。他力の至心信楽の業因の自然にひくなり。これを牽というなり。自然というは、行者のはからいにあらずとなり。
大勢至菩薩御銘文
『首楞厳経』に言わく、「勢至獲念仏円通
「大勢至法王子 与其同倫 五十二菩薩 即従座起 頂礼仏足 而白仏言 我憶往昔 恒河沙劫 有仏出世 名無量光 十二如来 相継一劫 其最後仏 名超日月光 彼仏教我 念仏三昧 乃至 若衆生心 憶仏念仏 現前当来 必定見仏 去仏不遠不仮方便 自得心開 如染香人 身有香気 此則名曰 香光荘厳 我本因地 以念仏心 入無生忍 今於此界 摂念仏人 帰於浄土」」已上略出
「勢至獲念仏円通」というは、勢至菩薩念仏をえたまうともうすことなり。獲というは、うるということばなり。うるというは、すなわち因位のとき、さとりをうるという。念仏を勢至菩薩さとりうるともうすなり。「大勢至法王子 与其同倫」というは、五十二菩薩と勢至とおなじきともともうす。法王子とその菩薩とおなじきともともうすを、与其同倫というなり。「即従座起 頂礼仏足 而白仏言」ともうすは、すなわち座よりたち、