おおきなること虚空のごとしとたとえたるなり。「観仏本願力 遇無空過者」というは、如来の本願力をみそなわすに、願力を信ずるひとはむなしく、ここにとどまらずとなり。「能令速満足 功徳大宝海」というは、能はよしという、令はせしむという、速はすみやかにとしという、よく本願力を信楽する人は、すみやかにとく功徳の大宝海を信ずる人の、そのみに満足せしむるなり。如来の功徳のきわなくひろくおおきに、へだてなきことを大海のみずのへだてなくみちみてるがごとしと、たとえたてまつるなり。
斉朝の曇鸞和尚の真像の銘文
「釈曇鸞法師者并州汶水県人也 魏末高斉之初猶在 神智高遠 三国知聞 洞暁衆経 独出人外 粱国天子蕭王 恒向北礼鸞菩薩 註解往生論 裁成両巻 事出釈迦才三巻浄土論也」文
「釈の曇鸞法師は并州の汶水県の人なり。」并州はくにのななり、汶水県はところのななり。「魏末高斉之初猶在」というは、魏末というは、震旦の世のななり。末は、すえというなり。魏の世のすえとなり。高斉之初は、斉という世のはじめというなり。猶在は、魏と斉との世になおいましきというなり。「神智高遠」というは、和尚の智慧すぐれていましけりとなり。「三国知聞」というは、三国は魏と斉と粱とこのみつの世におわせしとなり。知聞というは、みつの世にしられきこえたまいきとなり。「洞暁衆経」というは、あきらかによろずの経典をさとりたまうとなり。「独出人外」というは、よろずの人にすぐれたりとなり。「粱国の天子」というは、粱の世の王というなり。蕭王のななり。「恒向北礼」というは、粱の王つねに曇鸞