道のふたりは、一には僧、二には比丘尼なり。俗にふたり、一には仏法を信じ行ずる男なり、二には仏法を信じ行ずる女なり。念弥陀仏をもうすは、尊号を称念するとなり。「能念皆見 化仏菩薩」ともうすは、能念はよく名号を念ずとなり。よく念ずともうすは、ふかく信ずるなり。皆見というは、化仏菩薩をみんとおもう人は、みなみたてまつるなり。化仏菩薩ともうすは、弥陀の化仏、観音勢至等の聖衆なり。「明知称名」ともうすは、あきらかにしりぬ、仏のみなをとなうれば、「往生」すということを「要術とす」という。往生の要には如来のみなをとなうるにすぎたることはなしとなり。「宜哉源空」ともうすは、宜哉は、よしというなり。源空は聖人の御名なり。「慕道化物」というは、慕道は無上道をねがいしたうべしとなり。化物というは、物というは衆生なり。化はよろずのものを利益すとなり。「信珠在心」というは、金剛の信心をめでたきたまにたとえたまう。信心のたまをこころにえたる人は、生死のやみにまどわざるゆえに、「心照迷境」というなり。信心のたまをもって愚痴のやみをはらいあきらかにてらすとなり。「疑雲永晴」というは、疑雲は願力をうたがうこころをくもにたとえたるなり。永晴というは、うたがうこころのくもをながくはらしぬれば、安楽浄土へかならずうまるるなり。無碍光仏の摂取不捨の心光をもって信心をえたる人をつねにてらし、まもりたまうゆえに、「仏光円頂」といえり。仏光円頂というは、仏心をしてあきらかに信心の人のいただきをつねにてらしたまうとほめたまいたるなり。これは摂取したまうゆえなりとしるべし。
比叡山延暦寺宝幢院黒谷源空聖人の真像
『選択本願念仏集』に云わく、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」文