うちは、むなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)というは、ことのありさまにしたごうて、はからうべしということばなり。
 「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)というは、もろもろの戒をやぶり、つみふかきひとを、きらわずとなり。このようは、はじめにあらわせり。よくよくみるべし。
 「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経)というは、選択本願の文なり。この文のこころは、乃至十念のみなをとなえんもの、もしわがくににうまれずは仏にならじとちかいたまえる本願なり。「乃至」は、かみ・しもと、おおき・すくなき・ちかき・とおき・ひさしきをも、みなおさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかいなり。
 「非権非実」(唯信鈔)というは、法華宗のおしえなり。浄土真宗のこころにあらず。聖道家のこころなり。かの宗のひとにたずぬべし。
 「汝若不能念」(観経)というは、五逆十悪の罪人、不浄説法のもの、やもうのくるしみにとじられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ、くちに南無阿弥陀仏ととなえよとすすめたまえる御のりなり。これは、称名を本願とちかいたまえることをあらわさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまえるは、このこころなり。「応称」は、となうべしとなり。「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」(観経)というは、五逆の罪人は、そのみにつみをもてること、と八十億劫のつみをも