釈迦如来のみことには、念仏のひとをそしるものをば、「名無眼人」ととき、「名無耳人」とおおせおかれたることにそうろう。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、たしかに釈しおかせたまいたり。この世のならいにて、念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のようあることにてこそそうらわめ。とかくもうすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるきひとはもうされそうらいしか。よくよく御たずねあるべきことなり。つぎに、念仏せさせたまうひとびとのこと、弥陀の御ちかいは、煩悩具足のひとのためなりと、信ぜられそうろうは、めでたきようなり。ただし、わろきもののためなりとて、ことさらに、ひがごとをこころにもおもい、身にも口にももうすべしとは、浄土宗にもうすことならねば、ひとびとにもかたることそうらわず。おおかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたくそうらいながら、往生をうたがわずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も、もうすことにてそうろうに、かかるわるき身なれば、ひがごとをことさらにこのみて、念仏のひとびとのさわりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまうべしともうすことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかいに、もうあいがたくしてあいまいらせて、仏恩を報じまいらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされてそうろうらんこそ、かえすがえすこころえずそうろう。あさましきことにそうろう。ひとびとの、ひがさまに御こころえどものそうろうゆえに、あるべくもなきことどもきこえそうろう、もうすばかりなくそうろう。ただし、念仏のひと、ひがごとをもう