往生にさわりなければとて、ひがごとをこのむべしとは、もうしたることそうらわず。かえすがえす、こころえずおぼえそうろう。詮ずるところ、ひがごともうさんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなりそうらわめ、すべてよろずの念仏者のさまたげとなるべしとは、おぼえずそうろう。また、念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなりそうらわめ、よろずの念仏するひとのとがとなるべしとは、おぼえずそうろう。「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」
(法事讃)と、まのあたり善導の御おしえそうろうぞかし。釈迦如来は、「「名無眼人、名無耳人」と、とかせたまいてそうろうぞかし。かようなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもそうろうらん。それは、かのひとをにくまずして、念仏を、ひとびともうして、たすけんとおもいあわせたまえとこそ、おぼえそうらえ。あなかしこ、あなかしこ。
九月二日 親鸞
慈信坊 御返事
(一〇の追伸)入信坊・真浄坊・法信坊にも、このふみをよみきかせたまうべし。かえすがえす、不便のことにそうろう。性信坊には、春のぼりそうらいしに、よくよくもうしてそうろう。くげどのにも、よくよくよろこびもうしたまうべし。このひとびとの、ひがごとをもうしおうてそうらえばとて、道理をばうしなわれそうらわじとこそおぼえそうらえ。世間のことにもさることのそうろうぞかし。領家・地頭・名主のひがごとすればとて、百姓をまどわすことはそうらわぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし。仏法者