(一七)他力のなかには自力ともうすことは候うときき候いき―――「御消息集(広本)」第十六通に同じ。
(一八)御たずねそうろうことは、弥陀他力の回向の誓願にあいたてまつりて、真実の信心をたまわりてよろこぶこころのさだまるとき、摂取してすてられまいらせざるゆえに、金剛心になるときを、正定聚のくらいに住すとももうす。弥勒菩薩とおなじくらいになるともとかれてそうろうめり。弥勒とひとつくらいになるゆえに、信心まことなるひとをば、仏とひとしとももうす。また諸仏の、真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりととかせたまいてそうろうなり。『大経』には、釈尊のみことばに「見敬得大慶 則我善親友」とよろこばせたまいそうらえば、信心をえたるひとは諸仏とひとしととかれてそうろうめり。また弥勒をば、すでに仏にならせたまわんことあるべきにならせたまいてそうらえばとて、弥勒仏ともうすなり。しかれば、すでに他力の信をえたるひとをも、仏とひとしともうすべしとみえたり。御うたがいあるべからずそうろう。御同行の臨終を期してとおおせられそうろうらんは、ちからおよばぬことなり。信心まことにならせたまいてそうろうひとは、誓願の利益にてそうろううえに、摂取してすてずとそうらえば、来迎臨終を期せさせたまうべからずとこそおぼえそうらえ。いまだ信心さだまらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまうべし。この御ふみぬしの御名は、随信房とおおせられそうらわば、めでとうそうろうべし。この御ふみのかきようめでたくそうろう。御同行のおおせられようは、こころえずそうろう。それをば、ちからおよばずそうろう。あなかしこ、あなかしこ。