あおぎて仏智に帰するまことなくは、おのれがもつところの悪業、なんぞ浄土の生因たらん。すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて、三途八難にこそしずむべけれ、なにの要にかたたん。しかれば、善も極楽にうまるるたねにならざれば、往生のためにはその要なし。悪もまたさきのごとし。しかれば、ただ機生得の善悪なり。かの土ののぞみ、他力に帰せずは、おもいたえたり。これによりて、善悪凡夫のうまるるは大願業力ぞと、釈したまうなり。増上縁とせざるはなしというは、弥陀の御ちかいのすぐれたまえるにまされるものなしとなり。」
4 一 また、のたまわく、「光明名号の因縁ということあり。弥陀如来四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきわなからん」とちかいたまえり。これすなわち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願、すでに成就して、あまねく無碍のひかりをもって、十方微塵世界をてらしたまいて、衆生の煩悩悪業を長時にてらしまします。さればこのひかりの縁にあう衆生、ようやく無明の昏闇うすくなりて、宿善のたね萌すとき、まさしく報土にうまるべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば、名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとえに光明にもよおさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて、名号の因をうというなり。かるがゆえに、宗師 善導大師の御ことなり 「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(往生礼讃)とのべたまえり。「但使信心求念」というは、光明と名号と、父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといえども、子となりていでくべきたねなきには、ちち・ははと、なづくべきものなし。子のあるとき、それがために、ちちといい、ははという号あり。それがごとくに、光明をははにたとえ、名号をちちにたとえて、光明のはは、