しかるうえは、かならずしも俗の二種をしりぞけて、道の二種をすすましむべきにあらざるところに、女形・俗形たりながら法名をもちいる条、本形としては、往生浄土のうつわものにきらわれたるににたり。ただ男女善悪の凡夫をはたらかさぬ本形にて、本願の不思議をもって、生まるべからざるものを生まれさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。この一段ことに曾祖師源空ならびに祖師親鸞已来、伝授相承の眼目たり。あえて聊爾に処すべからざるものなり。

11 一 二季の彼岸をもって念仏修行の時節と定むる、いわれなき事。
 それ浄土の一門について、光明寺の和尚の御釈(礼讃)をうかがうに、「安心・起行・作業のみつあり」とみえたり。そのうち、起行・作業の篇をば、なお方便のかたとさしおいて、往生浄土の正因は、安心をもって定得すべきよし釈成せらるる条、顕然なり。しかるに、吾が大師聖人、このゆえをもって他力の安心をさきとしまします。それについて、三経の安心あり。そのなかに『大経』をもって真実とせらる。『大経』のなかには第十八の願をもって、本とす。十八の願にとりては、また願成就をもって、至極とす。「信心歓喜 乃至一念」をもって、他力の安心とおぼしめさるるゆえなり。この一念を他力より発得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして、涅槃の彼岸に至りぬる条、勿論なり。この機のうえは、他力の安心よりもよおされて、仏恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて、行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸のいいあり。このうえは、あながち中陽院の衆聖、衆生の善悪を決断する到彼岸の時節をかぎりて、安心・起行等の正業をはげますべきにあらざるか。かの中陽院の断悪修善の決断は、仏法疎遠の衆生を済度せしめんがための集会なり。いまの他力の行者においては、