ただ実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず、木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ、その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいいこれにあり。あさまし、あさまし。
19 一 凡夫自力の心行をおさえて、仏智証得の行体という、いわれなき事。
三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とおしえおきまします祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや。ちかごろこのむねをそむいて自由の妄説をなして、しかも祖師の御末弟と称する、この条ことにもっておどろきおぼゆるところなり。まず能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口にあいかないはんべれ。いまきこゆる邪義のごとくは、「煩悩成就の凡夫の妄心をおさえて金剛心といい、行者の三業所修の念仏をもって一向一心の行とす」と云々 此の条、つやつや自力・他力のさかいをしらずして、人をもまよわし、われもまようものか。そのゆえは、まず「金剛心成就」という、金剛はこれたとえなり。凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。されば大師の御釈には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」(序分義)と云々 不成の義、これをもってしるべし。しかれば、凡夫不成の迷情に