問うていわく、「聖人の料簡はまことにたくみなり、あおいで信ず。ただし経文にかえりて理をうかがうとき、いずれの文によりてか、来迎を期せず臨終をまつまじき義をこころうべきや。たしかなる文義をききて、いよいよ堅固の信心をとらんとおもう。」
 こたえていわく、「凡夫、智あさし。いまだ経釈のおもむきをわきまえず。聖教万差なれば、方便の説あり、真実の説あり。機に対すればいずれもその益あり。一遍に義をとりがたし。ただ祖師のおしえをききて、わが信心をたくわうるばかりなり。しかるに、世のなかにひろまれる諸流みな臨終をいのり来迎を期す。これを期せざるはひとりわがいえなり。しかるあいだこれをきくものはほとほとみみをおどろかし、これをそねむものははなはだあざけりをなす。しかれば、たやすくこの義を談ずべからず。他人謗法のつみをまねかざらんがためなり。それ、親鸞聖人は深智博覧にして内典・外典にわたり、恵解高遠にして聖道・浄土をかねたり。ことに浄土門にいりたまいしのちは、もっぱら一宗のふかきみなもとをきわめ、あくまで明師のねんごろなるおしえをうけたまえり。あるいはそのゆるされをこうぶりて製作をあいつたえ、あるいはかのあわれみにあずかりて真影をうつしたまわらしむ。としをわたり日をわたりて、そのおしえをうくるひと千万なりといえども、したしきといい、うときといい、製作をたまわり真影をうつすひとはそのかずおおからず。したがいて、この門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること田舎・辺鄙におよべり。化導のとおくあまねきは、智恵のひろきがいたすところなり。しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。ながれをくむやから、ただあおいで信をとるべし。無智の末学なまじいに経釈について義を論ぜば、