問うていわく、諸行の往生をもって辺地の往生ということ、いずれの文証によりてこころうべきぞや。
 こたえていわく、『大経』のなかに胎生・化生の二種の往生をとくとき、「あきらかに仏智を信ずるものは化生し、仏智を疑惑して善本を修習するものは胎生する」義をとけり。しかれば「あきらかに仏智を信ずるもの」というは第十八の願の機、これ至心信楽の行者なり。その「化生」というはすなわち報土の往生なり。つぎに「仏智を疑惑して善本を修習するもの」というは第十九の願の機、修諸功徳の行人なり。その「胎生」といえるはすなわち辺地なり。この文によりてこころうるに、諸行の往生は胎生なるべしとみえたり。されば、十八の願に帰して念仏を行じ仏智を信ずるものは、得生の益にあずかりて、報土に化生し、十九の願をたのみて諸行を修するひとは、来迎の益をえて化土に胎生すべし。「化土」というはすなわち辺地なり。
 問うていわく、いかなるをか「胎生」といい、いかなるをか「化生」となづくるや。
 こたえていわく、おなじき『経』(大経)にまず「胎生の相をとく」としては、「生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞経法 不見菩薩 声聞聖衆 是故於彼国土 謂之胎生」といえり。こころは「かの極楽の宮殿にうまれて、いのち五百歳のあいだ、つねに仏をみたてまつらず、経法をきかず、菩薩・声聞・聖衆をみず。このゆえにかの国土において、これを「胎生」という」なり。これ疑惑のものの生ずるところなり。つぎに「化生の相をとく」としては、「於七宝花中 自然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相光明 智恵功徳 如諸菩薩 具足成就」といえり。こころは「七宝のはなのなかにおいて、自然に跏趺してしかも坐す。須臾のあいだには、身相・光明・智恵・功徳、もろもろの菩薩のごとくして具足し成就す」となり。これ仏智を信ずるもの