御文
第一帖
1 ある人いわく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候うやらん、如来・聖人の御弟子ともうすべく候うやらん、その分別を存知せず候う。また、在々所々に小門徒をもちて候うをも、このあいだは手次の坊主には、あいかくしおき候うように、心中をもちて候う。これもしかるべくもなきよし、人のもうされ候うあいだ、おなじくこれも不審千万に候う。御ねんごろにうけたまわりたく候う。
答えていわく、この不審もっとも肝要とこそ存じ候え。かたのごとく耳にとどめおき候う分、もうしのぶべし。きこしめされ候え。故聖人のおおせには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ、おおせられ候いつれ。「そのゆえは、如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり。さらに親鸞めずらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもおしえきかしむるばかりなり。そのほかは、なにをおしえて弟子といわんぞ」とおおせられつるなり。されば、とも同行なるべきものなり。これによりて、聖人は御同朋・御同行とこそかしずきておおせられけり。されば、ちかごろは大坊主分のひとも、われは一流の安心の次第をもしらず、たまたま弟子のなかに、信心の沙汰する在所へゆきて、聴聞し候う