これによりて、平生のとき一念往生治定のうえの、仏恩報尽の多念の称名とならうところなり。しかれば祖師聖人御相伝一流の肝要は、ただこの信心ひとつにかぎれり。これをしらざるをもって他門とし、これをしれるをもって真宗のしるしとす。そのほかかならずしも外相において、当流念仏者のすがたを、他人に対してあらわすべからず。これをもって、真宗の信心をえたる行者のふるまいの正本となづくべきところ、件のごとし。
文明六年 甲午 正月十一日書之
4 「それ、弥陀如来の超世の本願ともうすは、末代濁世の、造悪不善の、われらごときの凡夫のために、おこしたまえる無上の誓願なるがゆえなり。しかれば、これをなにとようにこころをももち、なにとように弥陀を信じて、かの浄土へは往生すべきやらん、さらにその分別なし。くわしくこれをおしえたまうべし。」
答えていわく、「末代今時の衆生は、ただ一すじに弥陀如来をたのみたてまつりて、余の仏菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかにつみふかくとも、仏の大慈大悲をもって、すくわんとちかいたまいて、大光明をはなちて、その光明のうちにおさめとりましますゆえに、このこころを『経』(観経)には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」とときたまえり。されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、これをふさぎたまうなり。このいわれをまた『経』(大経)には「横截五悪趣 悪趣自然閉」ととかれたり。かるがゆえに、如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは、いかに地獄へおちんとおもうとも、弥陀如来の摂取の光明におさめとられまいらせたらん身は、わがはからいにて地獄へもおちずして、極楽にまいるべき身なるがゆえなり。かようの道理なるときは、