そのほか仁義をもって本とし、また後生のためには、内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまいらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。このこころえのとおりをもって、すなわち弥陀如来の他力の信心をえたる、念仏行者のすがたとはいうべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうえに、なおおもうべきようは、さてもかかるわれらごときの、あさましき一生造悪のつみふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりて、たやすくたすけたまえる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもいたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめても、ただ念仏ばかりをとなえて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。このうえには、後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろ、もってのほかみな人のなにの不足ありてか、相伝もなき、しらぬくせ法門をいいて、人をもまどわし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもってあさましき次第なり。よくよくおもいはからうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
   文明八年七月十八日

第四帖

1 それ真宗念仏行者のなかにおいて、法義についてそのこころえなき次第これおおし。しかるあいだ、大概