阿弥陀如来の本願のましますときけば、まことにたのもしく、ありがたくもおもいはんべるなり。この本願を、ただ一念無疑に、至心帰命したてまつれば、わずらいもなく、そのとき臨終せば往生治定すべし。もしそのいのちのびなば、一期のあいだは仏恩報謝のために念仏して、畢命を期とすべし。これすなわち平生業成のこころなるべしと、たしかに聴聞せしむるあいだ、その決定の信心のとおり、いまに耳のそこに退転せしむることなし。ありがたしというもなおおろかなるものなり。されば、弥陀如来他力本願のとうとさ、ありがたさのあまり、かくのごとくくちにうかむにまかせて、このこころを詠歌にいわく、
ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ
つみふかく 如来をたのむ 身になれば のりのちからに 西へこそゆけ
法をきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ
と、わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、かくもうしはんべりぬ。この三首の歌のこころは、はじめは、一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべりぬ。のちの歌は入正定聚の益、必至滅度のこころをよみはんべりぬ。つぎのこころは、慶喜金剛の信心のうえには、知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。されば、他力の信心発得せしむるうえなれば、せめては、かようにくちずさみても、仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもい、またきくひとも宿縁あらば、などやおなじこころにならざらんとおもいはんべりしなり。しかるに、予すでに七旬のよわいにおよび、ことに愚闇無才の身として、片腹いたくも、かくのごとく、しらぬえせ法門をもうすこと、かつは斟酌をもかえりみず、ただ本願一すじの、とうとさばかりのあまり、卑劣のこ