一 信心決定のひとも、細々に、同行に会合のときは、あいたがいに信心の沙汰あらば、これすなわち真宗繁昌の根源なり。
一 当流の信心決定すという体は、すなわち「南無阿弥陀仏」の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していわく「言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行」(玄義分)といえり。「南無」と、衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行、恒沙の功徳をさずけたまうなり。このこころすなわち「阿弥陀仏即是其行」というこころなり。このゆえに、「南無」と帰命する機と、阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とはもうすなり。かるがゆえに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
そもそも、この八か条のおもむき、かくのごとし。しかるあいだ当寺建立は、すでに九か年におよべり。毎年の報恩講中において、面々各々に、随分信心決定のよし、領納ありといえども、昨日今日までも、その信心のおもむき不同なりあいだ、所詮なきものか。しかりといえども、当年の報恩講中にかぎりて、不信心のともがら、今月報恩講中のうちに、早速に真実信心を獲得なくは、年々を経というとも、同篇たるべきようにみえたり。しかるあいだ愚老が年齢、すでに七旬にあまりて、来年の報恩講をも期しがたき身なるあいだ、各々に真実に