はつみふかき、あさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは、阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのようもなく、ひとすじにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもいをなして、後生たすけたまえとたのみもうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおおきなる光明をはなちて、その光明のなかにそのひとをおさめいれておきたまうべし。さればこのこころを、『経』には「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(観経)とはとかれたりとこころうべし。さては、わが身の、ほとけにならんずることは、なにのわずらいもなし。あら、殊勝の超世の本願や。ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしきやまいの、なおるということはさらにもってあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよおされて、宿善の機ありて他力信心ということをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさずけましましたる信心とは、やがてあらわにしられたり。かるがゆえに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心ということは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、みな弥陀如来の御恩をおもいはかりて、仏恩報謝のために、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
13 それ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。されば信心をとるというも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべ