さてわが身のつみのふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまいらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまえとたのみもうさば、その身をよくしろしめしてたすけたまうべきこと、うたがいあるべからず。たとえば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにそのうたがうこころつゆほどももつべからず。かやうに信ぜん女人は、浄土にうまるべし。かくのごとくやすきことを、いままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもいて、なおなおふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
15 それ、弥陀如来の本願ともうすは、なにたる機の衆生をたすけ給うぞ。またいかように弥陀をたのみ、いかように心をもちてたすかるべきやらん。まず機をいえば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重に、こころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。されば、その信心というは、いかようにこころをもちて、弥陀をばなにとようにたのむべきやらん。それ、信心をとるというは、ようもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいうわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころのうたがいなきを、真実信心とはもうすなり。かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明をはなちてひかりの中におさめおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを、念仏衆生を摂取したまうということなり。このうえには、たとい一期のあいだもうす念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。これを、当流の信心をよくこころえたる念仏行者というべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。