仏は正覚なりたまうべからず。ここをこころうるを、第十八の願をおもいわくとはいうなり。まことに往生せんとおもわば、衆生こそ願をもおこし、行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間、出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを、「別異の弘願」(玄義分)とほめたまえり。衆生にかわりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして、善人におよぶまで、一衆生のうえにもおよばざるところあらば、大悲の願、満足すべからず。面々衆生の機ごとに、願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば、正覚とらじとちかいたまえり。われらすでに阿弥陀という名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりということを。きくというは、ただおおように名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて、うたがわざるをきくとはいうなり。御名をきくも本願より成じてきく。一向に他力なり。たとい、凡夫の往生成じたまいたりとも、その願成就したまえる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆえに、名号をききても、形像を拝しても、わが往生を成じたまえる御名ときき、われらをわたさずは、仏にならじ、とちかいたまいし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまえる御すがたよ、とおもわざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。『平等覚経』にのたまわく、「浄土の法門をとくをききて、歓喜踊躍し、身の毛いよだつ」というは、そぞろによろこぶにあらず。わが出離の行をはげまんとすれば、道心もなく、智慧もなし。智目行足かけたる身なれば、ただ三悪の火坑にしずむべき身なるを、願も行も仏体より成じて、機法一体の正覚成じたまいけることの、うれしさよ、とおもうとき、歓喜のあまり、おどりあがるほどにうれしきなり。