此の言は釋迦に歸したてまつるなりと知るなり。若し此の意を謂ふに、遍く諸佛に告こと亦復嫌こと无けむ。夫れ菩薩は佛に歸す孝子の父母に歸し忠臣の君后に歸して、動靜己れに非ず出沒必ず恩を知て德を報ずるに由るが如し、理宜しく先づ啓すべし。又所願輕らず、若し如來威神を加したまはずば将に何を以てか達せむとする、神力を加ことを乞ふ、所以に仰で告なりと。「我一心」は、天親菩薩自督の詞なり、言ふこころは、无碍光如來を念じてたてまつりて安樂に生と願こと心心相續して他の想ひ間雜すること无となり。 問曰。佛法の中には我无し、此の中に何を以か我と稱するや。答曰。我と言ふに三の根本有。一は是邪見語、二は是自大語、三は是流布語なり。いま我と言は天親菩薩の自ら之を指しふる言なり、流布語を用る、邪見と自大とに非るなり。
「歸命盡十方无碍光如來」は、歸命は即是礼拜門なり、盡十方无碍光如來は即是讃嘆門なり。何を以か知となれば、歸命は是礼拜なりと。龍樹菩薩の阿彌陀如來の讃(易行品)を造れる中に、或は「稽首礼」と言ひ、或いは「我歸命」と言ひ、或いは「歸命礼」と言へり。此論の長行の中に、亦五念門を修すと言。五念門の中に、礼拜是一なり。天親菩薩既に往生を願ず、豈に礼せざるべけむや、故に知ぬ歸命は即是礼拜なり。然に礼拜は但是恭敬なり、必ず歸命にあらず、歸命は必是礼拜なり。若此を以て歸命を推せば、重しと爲。偈は己心を申ぶ、宜しく歸命と言ふべし。論は偈の義を解す、汎く禮拜を談ず。彼此相ひ成じて、義に於ていよいよ顯はれたり。
何を以か盡十方无碍光如來是讃嘆門なりと知るとならば、下の長行の中に言く。「云何が讃嘆門、謂く彼の如來の名を稱し、彼の如來の光明智相の如く、彼の名義の如く、實の如く修行し相應せむと欲ふが故となり」。舍衞國所説の『无量壽經』(小經)に依らば、