既に種種の法を知ば、復云何ぞ分別する所无しと言ふや。答曰。諸法の種種の相、皆幻化の如し。然に幻化の象・馬、長き頸・鼻・手・足の異なること无きにあらざれども、智者之を觀るに豈に定で象・馬之を分別すること有りと言むや。
何者か莊嚴大衆功德成就、偈に天人不動衆淸淨智海生と言へるが故にと。 何者か莊嚴上首功德成就、偈に如須彌山王勝妙无過者と言へるが故にと。 何者か莊嚴主功德成就、偈に天人丈夫衆恭敬繞瞻仰と言へるが故にと。 何者か莊嚴不虚作住持功德成就、偈に觀佛本願力遇无空過者能令速滿足功德大寶海と言へるが故にと。
「不虚作住持功德成就」は、盖し是れ阿彌陀如來の本願力なり。いま當に略して虚作の相の住持能はざるを示して、用て彼の不虚作住持の義を顯すべし。人、飡を輟 止也貞劣反 めて士を養い、或は舟の中に舋起すこと有り、金を積みて庫に盈てれども餓死を免れず。斯の如きの事、目に觸に皆是なり。得て得を作すに非ず、在て在るを守にあらざること皆虚妄の業をして作して住持すること能はずになり。言ふ所の不虚作住持は、本と法藏菩薩の四十八願と、今日の阿彌陀如來の自在神力とに依るなり。願以て力を成ず、力以て願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず、力願相苻ふて畢竟じて差はざるが故に成就と曰ふ。
即ち彼の佛を見せば未證淨心の菩薩畢竟じて平等法身を得證して、淨心の菩薩と上地の諸の菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得しむるが故なり。
「平等法身」は、八地已上の法性生身の菩薩なり。「寂滅平等」は、即ち此の法身の菩薩の所證の寂滅平等の法なり。