然らざることを得んや。當に復た例を引て自力・他力の相を示すべし。如人の三塗を畏が故に禁戒を受持す、禁戒を受持するが故に能く禪定を修す。禪定を以ての故に神通を修習す、神通を以ての故に能く四天下に遊ぶ、是の如き等を名て自力と爲す。又劣夫の驢に跨りて上らざれども、轉輪王の行に從ひぬれば、便ち虚空に乘じて四天下に遊ぶこと鄣碍する所无きが如し、是の如き等を名づけて他力と爲す。愚かなる哉後の學者、他力の乘ずべきことを聞て當に信心を生ずべし。自ら局分すること勿れとなり。
無量壽修多羅憂婆提舍願偈略して義を解し竟ぬ。
經の始に如是と稱す、信を彰はして能入と爲す。末に奉行と言ふことは服膺の事を表し已ぬ。論の初に歸礼することは宗旨由有ることを明す。終りに義竟と云ふは所詮の理を示し畢ぬ。述作の人殊に茲に於て例を成すと。
無量壽經優婆提舍願生偈註 卷下