乃ち明昧を異と爲すべきのみ、亦安ぞ超然たることを得ん哉と。此の疑を起すが故に、佛の智慧に於て疑を生じて信ぜず。此の疑を對治するが故に「不可稱智」と言ふ。不可稱智とは、言ふこころは佛智は稱謂を絶し相形待するに非ず。何を以てか之を言ふとならば、法若し是有ならば必ず有を知るの智有り、法若し是无ならば亦應に无を知るの智有るべし、諸法は有无を離るが故に佛、諸法に冥ふときは則ち智相待を絶す、汝解迷を引きて喩と爲すも、猶是一迷のみ、迷解を成ぜず、亦夢中にして他の與に夢を解くが如し、夢を解くと云ふと雖も是夢ならざるに非ず。知を以て佛を取るも佛を知ると曰はず、不知を以て佛を取るも亦佛を知るに非ず。非知非不知を以て佛を取るも亦佛を知るに非ず、非非知非非不知を以て佛を取るも亦佛を知るに非ず。佛智は此の四句を離れたり、之を縁ずる者は心行滅し、之を指ふる者は言語斷ず、是の義を以ての故に『釋論』(智度論卷一八)に言く。「若し人般若を見る、是則ち縛せ被れたりと爲す。若し般若を見ざるも、是亦被れたりと爲す。若し人般若を見る、是則ち解脱と爲し、若し般若を見ざるも、是亦解脱と爲す」と。此の偈の中に説かく。「四句を離れざる者を縛と爲し、四句を離るる者を解と爲すといへり」と。汝佛智は人と玄絶ならずと疑はば、是の事然らず。
三には疑はく、佛は實に能はず一切衆生を度したまふこと、何を以ての故に、過去世に无量阿僧祇恒沙の諸佛有ます、現在十方世界にも亦无量无邊阿僧祇恒沙の諸佛有ます。若し佛をして實に能く一切衆生を度せしむるときは、則ち應に久しく復三界无かるべし、第二の佛は則ち應に復衆生の爲に菩提心を發し、具に淨土を脩して衆生を攝受したまふべからず。而るに實には第二の佛有まして衆生を攝受したまふ、乃至實には三世十方无量の諸佛有まして衆生を攝受したまふ。故に知る、佛は實に一切衆生を度したまふこと能はずと。此の疑を起すが故に、阿彌陀佛に於て有量の想を作す。此の疑を對治するが故に「大乘廣智」と言ふ。大乘廣智とは、言ふこころは佛は法として知りたまはずといふこと无く、煩惱として斷じたまはずといふこと无く、善として備えたまはずということ无く、衆生として度したまはずといふこと无し。三世十方の佛有ます所以は、五義有り。一には若し第二の佛无く乃至阿僧祇恒沙の諸佛无からしめば、佛便ち一切衆生を度したまふこと能はず。實に能く一切衆を度したまふを以ての故に則ち十方无量諸佛有ます、諸佛は即ち是前佛の度したまふ所の衆生なればなり。二には若し一佛一切衆生を度し盡くせば、