第九に『攝論』と此の『經』と相違するに據て別時意の語を料簡せば、今『觀經』の中に佛下品生の人現に重罪を造らんも命終の時に臨みて善知識に遇ひて十念成就して即ち往生することを得と説きたまふ。『攝論』に云ふに依るに、佛の別時意の語なりと噵へり。又古來通論の家多く此の文を判じて云く。臨終の十念は但往生の因と作ることを得るも未だ即ち生を得ず。何を以て知ることを得とならば『論』(眞諦譯攝大乘論釋卷六意)に云く。「一金錢を以て千金錢を貿ひ得るは一日に即ち得るには非ざるが如し」と。故に知んぬ、十念成就の者は但因と作ることを得て未だ即ち生を得るにはあらず。故に別時意語と名くと。此の如きの解は將に未だ然らずと爲す。何となれば凡そ菩薩論を作りて經を釋することは皆遠く佛意を扶けて聖の情に契會せんと欲してなり。若し論文經に違ふこと有らば是の處有ること無し。今別時意の語を解せば、謂く佛の常途の説法は皆先因後果を明す。理數炳然なり。今此の經の中には但一生罪を造りて命終の時に臨みて十念成就して即ち往生を得と説きて、過去の有因無因を論ぜざるは、直是世尊當來の造惡の徒を引接して、其の臨終に惡を捨て善に歸し念に乘じて往生せしめんとなり。是を以て其の宿因を隱す。此は是世尊始を隱して終を顯し、因を沒して果を談ずるを、名けて別時意の語と作す。何を以て但十念成就せしむることは皆過去の因有ることを知ることを得るや。『涅槃經』(北本卷六・南本卷六意)に云ふが如し。「若し人過去に已に曾て半恆河沙の諸佛を供養して復發心を經て能く惡世の中に於て大乘の經敎を説くを聞きて、但能く謗らざるのみ、未だ餘の功有らず。若し一恆河沙の諸佛を供養することを經、及び發心を經て然る後に大乘の經敎を聞くものは、直謗らざるのみに非ず、復愛樂を加ふ」と。此の諸經を以て來驗するに明らかに知んぬ、十念成就する者は、皆過因有りて虚しからず。若し彼の過去に因無き者は善知識にすら尚逢遇すべからず。何に況や十念して成就すべけむや。『論』に「一金錢を以て千金錢を貿ひ得るは一日に即ち得るには非ず」と云ふは、