二に正報の中に就て、亦其の二有り。一には主莊嚴、即ち阿彌陀佛是なり。二には聖衆莊嚴、即ち現に彼に在る衆、及び十方法界同生の者是なり。又此の正報の中に就て亦通有り別有り。別と言ふは即ち阿彌陀佛是なり。即ち此の別の中に亦眞有り假有り。假の正報と言ふは、即ち第八の像觀是なり。觀音・勢至等亦是の如し。此れ衆生障重く染惑處深きに由て、佛乍に眞容を想はんも、顯現するに由無からんことを恐れたまふが故に、眞像を假立して以て心想を住ぜしめ、彼の佛に同じて以て境を證せしめたまふ。故に假の正報と言ふ。眞の正報と言ふは、即ち第九の眞身觀是なり。此れ前の假正に由て、漸く以て亂想を息めて、心眼開くことを得、粗々彼の方の淸淨の二報、種種の莊嚴を見て、以て昏惑を除く。障を除くに由るが故に、彼の眞實の境相を見ることを得るなり。通の正報と言ふは、即ち觀音・聖衆等已下是なり。向來言ふ所の通別・眞假は、正しく依正二報を明す。「觀」と言ふは照なり。常に淨信心の手を以て、以て智慧の輝を持ち、彼の彌陀の正依等の事を照らす。「經」と言ふは經なり。經能く緯を持ちて匹丈を成ずることを得て其の丈用有り。經能く法を持ち、理事相應し、定散機に隨ひて義零落せず。能く修趣の者をして、必ず敎行の縁因に藉りて、願に乘じ往生して、彼の無爲の法樂を證せしむ。既に彼の國に生じぬれば更に畏るる所無し。長時に行を起して果菩提を極む。法身常住なること、比へば虚空の若し。能く此の益を招く、故に曰けて經と爲す。「一卷」と言ふは、此の『觀經』一部、兩會の正説と言ふと雖も、總じて斯の一を成ず、故に一卷と名く。故に「佛説無量壽觀經一卷」と言ふ。此れ即ち其の名義を釋し竟んぬ。