問て曰く。願意云何が、乃ち生ぜずと言ふや。答て曰く。他の説きて西方は快樂不可思議なりと言ふを聞きて、即ち願を作して言く、我も亦願はくは生ぜんと。此の語を噵ひ已りて更に相續せず、故に願と名くるなり。今此の『觀經』の中の十聲の稱佛は、即ち十願・十行有りて具足す。云何が具足する。南無と言ふは即ち是歸命なり、亦是發願廻向の義なり。阿彌陀佛と言ふは、即ち是其の行なり。斯の義を以ての故に必ず往生を得と。又來『論』(眞諦譯攝大乘論卷中意)の中に「多寶佛を稱して爲に佛果を求む」とは即ち是正報にして、下に「唯發願して淨土に生ぜんことを求む」とは即ち是依報なり。一は正一は依、豈相似することを得んや。然るに正報は期し難し、一行精なりと雖も未だ剋せず。依報は求め易し。所以に一願の心のみならば未だ入らず。然りと雖も譬へば邊方化に投ずるは即ち易く、主と爲るは即ち難きが如し。今時の往生を願ずる者は、並びに是一切投化の衆生なり、豈易きに非ずや。但能く上一形を盡し下十念に至るまで佛の願力を以て皆往かずといふこと莫し。故に易と名くるなり。斯れ乃ち言を以て義を定むべからず、信を取らんとする者疑を懷く、要ず聖敎を引きて來し明し、之を聞かん者をして方に能く惑を遣らしめんと欲す。
[和會門 二乘種不生]
第六に二乘種不生の義を會通すとは、 問て曰く。彌陀の淨國は當是報なりや是化なりやと爲んや。答て曰く。是報にして化に非ず。云何が知ることを得る。『大乘同性經』(卷下意)に説くが如し。「西方の安樂の阿彌陀佛は是報佛報土なり」と。又『無量壽經』に云く。法藏比丘、世饒王佛の所に在まして、菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を發して、一一の願に言はく、若し我佛を得んに、十方の衆生、我が名號を稱して、我が國に生れんと願ぜん、下十念に至るまで、若し生れずば、正覺を取らじと。今既に成佛したまへり。即ち是酬因の身なり。又『觀經』の中に、上輩三人、命終の時に臨みて、皆阿彌陀佛化佛と及與に此の人を來迎すと言へり。